藤沢周平と歩く of hearts design factory

涙が頬を濡らす

「ひでこ節」より
 長次郎は、茫然と眼の前にひろがる川面を見つめた。お才は、この川を越えて行ったのだ。松前という、途方もなく遠くに・・・・・・・・・
 お才が、突然姿を消してから、あらまし三年の月日が経っていた。今度はお前が唖になったか、と母に言われる程口数も少なく、ただ新しい温海人形を作るのに打ち込んだ。

 「出来たな」
 「だが、みんながみんな、どうしてこう愁い顔をしているのだ」
 「あっしも、そう思っています」

 長次郎は、仕事台の前に胡坐をかくと、そこに置いてある一塊の粘土に眼をあてた。・・・・・・・
指が、敏速に土塊を圧し、もぎとり、撫でる。竹べらをとった時、長次郎は不意にうろおぼえのひでこ節を口にしていた。

「誰だ」
 どっと吹き込む雨風と一緒に、頭から水をかぶったようにぐしょ濡れになったお才が入って来、長次郎を見ると、血の気を失った唇に微かな笑いを刻んだ。
「お才!」
長次郎が叫んだ時、お才の身体は重心を失ったように、ゆらりと長次郎の胸に倒れこんできた。

 時折、長次郎は縁側から、寝ているお才を振り返ってみた。呼吸は穏やかだったし、頬にも赤味がさしてきていた。その頬のやつれているのが哀れだった。どこで、どう暮らしてきたものか、と思う。
 しかし、お才がここを、帰るところと思いさだめて戻ってきたことで、長次郎は満足していた。
生乾きの粘土でしかない人形に、眼鼻を入れながら、長次郎は、心が明るく弾むのを感じ、小さい声で唄った。
「違うとる」
「・・・」
不意に後で美しく澄んだ声がした。・・・・・・

「お才」
「唄が、違うとる」
「お才」
・・・・・激しい感動に、長い間言葉を失ってお才を見つめたが、漸く、
「お前、よく帰ってきたな」
と言った。お才が伸べてきた手を、長次郎はしっかりと握り、それから肩を抱いた。
不意に、長次郎の眼に涙が溢れ、それは恥ずかしいほど頬を濡らした。